昔のお話 2話  8耐

小生、実は1983年〜84年にかけて、地方誌のカメラマン・レポーターをやっていました。
私のバイク特集を、カラー4ページに渡って掲載されたことがきっかけで、そこの雑誌社と連絡をとりはじめました。(実は、私の持ち込み企画だったんですがね(笑))
それからバイク関係の記事を、自分で編集部へ持ち込んでいたのです。
要するに外注スタッフです。


83年の夏、鈴鹿8耐があり企画を持ち込むと、ちょっと厳しいらしい。地方誌としては馴染まないとか、もともと4輪の雑誌だし、また財政も厳しかったらしい。編集長は乗り気だったんだけどね。
でも、「ギャラはいらないから経費だけ出して」って言ったら、何とか会議でOKが出ました。
開催まで時間がないので早々に準備をして出発。
経費節減のため、陸路を自走。フェリーも、青函の最短ルートのみ。ひたすら三重県鈴鹿サーキットを目指して・・・

到着したのは、決勝前日の夕方。とても蒸し暑かったことを覚えています。
ピットを一通り見ることに。やっぱりカワサキフランスのKR1000かっこいい!
憧れのマシンでしたよ。今でもかっこいいと思います。(KVAS)のステッカーが印象的でした。
一通り回った後は、車の中で暑い暑いと言いながら一休み。


深夜、やっと少し気温が下がったので、ブラっとピットのほうへ。
深夜も深夜、午前2時位だから、さすがにピットのシャッターは全部閉まってい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ない!
まだ2〜3チームが作業中。


その中でも、ひときわ忙しく作業しているチームが。
そう、その中にあったんです、チームヨシムラ。
マシンを決勝で最高のコンディションで走行させるために、みんな一生懸命作業を続けていました。(カワサキフランスは余裕で早々に店じまい)
で、、、、いたんです、POP.YOSHIMURA。ゴッドハンドを持つ神。
作業しているエンジニアを見ていました。スタッフが作業しているときは、自分も一緒にいる。


情報が今と比べて極端に少なかったけど、ヨシムラさんは本当の単車乗りなら殆ど知っていたし、ヨシムラブランドのパーツは、みな羨望の目で見ていました。
(ステッカーだけ貼っていた者もいっぱいいましたしね)

こんなチャンス、みすみす見逃す手はない。
でも、決勝前日ですよ・・・良いのか?・・・「そんなの関係ねぇ〜」・・・・・とはいかないぞ・・・・・

でも行っちゃいました。(今思えば、初対面だしヤッパリ無謀でしたか・・・)





                                つづく・・・・(笑)